15歳で白日会に入選した田代光の自伝より。
『僕は七人兄弟の長兄として育った。
父は一介の製版画工で、三間印刷、精美堂(現在の共同印刷の前身)などの大きな印刷会社に務めたり、ある時は自分で職人を使って下請をしていた
こともあった。
それが昭和初期の不景気時代に、年も年だったので職を失ってしまったのである。
だいたい上の学校に行く希望は、兄弟が多いので断念しなくてはならなかった。
半面、僕は画家になるように育てられ、十三才頃から故富田温一郎という油絵の先生のところへ通わせられた。
僕は平凡な少年にしか過ぎなかったが、絵だけは幼少の頃から好きで多少は上手かったようである。亡くなった図案家の多田北鳥氏が、青年の頃に僕の家に出入りしていて、僕のことを絵描きにした方がいいと父に奨めたそうである。周囲の影響もあったのであろうが、僕自身子供の頃から絵描きになることを夢見ていた。
僕は高小を出ると、太平洋画会に通った。
坊主頭に紺絣の着物、小倉の袴を穿いて研究所へ通ったのであるが、僕が最年少者であった。
その頃、挿絵を描いている伊勢良雄君などがいたことをおぼえている。
ここで本格的なデッサンの勉強が始まったのだ。いよいよ画家の仲間入りが出来るのだという希望で胸の膨らむ思いであった。頭髪と髭を山男のようにはやした垢だらけの青年達が、絵具箱を肩に研究所の床板を鳴した。僕は最短距離で進級して人体部に進んだ。ここでは石膏の……』