熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

メモ パラシュートの謎

別件メモ『剱埼灯台

 

義父の『外房小景』は美術館の人が持ち帰り、寄贈になるかも的な。どちらにせよ来年千葉の公立美術館で展示される。

ここんとこ毎年公立美術館に義父の作品が展示されてるの褒めてと天に叫ぶ。

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そういえば、義父が千葉で描いたらしいパラシュート関係の作品。

昭和13年(1938)に降下中の人たちの作品『パラシュート』を独立美術協会に出し。

昭和14年(1939)にパラシュート降下後の人たちと言われた図を熊谷登久平は白日会に出している。
で、その白日会に出した『夏に鍛える』1939年の絵は我が家にあり、夫は千葉だと聞いていると言う。千葉のパラシュート?

これが戦後に描かれたものなら習志野と決めつけちゃったりしたりして。が、戦前。

空の神兵、空挺部隊
館山に空挺が移ったのは開戦直前とのうろ覚えで。

戦前、富国強兵のなかで旧制中学には滑空(グライダー)部ができて、あちらこちらに滑空学校があったと何かで読んだうろ覚え。滑空技術の等級が良い生徒は少飛(陸軍の少年飛行学校)や予科練(海軍の航空兵の教育機関)で操縦になれる率が高かったとかも聞いただけで確証はとってない。

その滑空学校でもパラシュートを習ったとかの話しはあったけど、どうだろう。

パラシュートを見られる場所があったのだろうか?

など、不勉強を嘆きつつ。

夏に鍛えるは最初私はパラソルかと思っていた。

海辺と日焼け的な。

それが作品を見た某隊の方が降下後にパラシュートをかたしてるのではと。

発表された時期から独立美術協会に出したパラシュートと同じ頃に描かれたと思われるので、それもあり得るかな的な気持ちでパラシュートか思ったけど、なんか合わない。

 

昭和13年……

 

読売遊園の『パラシュート練習塔(読売大落下傘塔)』は設計段階かな。

 

 

 

 

再婚する時に戦争関係、戦友会関係の資料を一気に廃品回収に出したのを後悔している。

 


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体温35.3

血中酸素97

機械脈90

実測90 不整脈なし

血圧110-68