熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

関東大震災から101年

大正12年夏に浅草生まれた義母には震災の記憶はないが、周りの人に聞いて育ったので地震をとても恐れていた。

ので義母が竹屋敷と呼ばれた熊谷登久平の家を解体して再建築をした我が家は柱の数がとても多い。竹屋敷は明治時代に美學の学長の官舎として建てられたので、国威もあるからか免震構造だったので、解体時研究者が調べていたと幼かった夫のうろ覚え。関東大震災でもびくともしなかったと伝わる。

 

 

思春期からの友人のお祖母様は関東大震災時には人形町の屋敷に住んでいたが、震災後神戸に避難し、神戸は地震が少ないと気に入り不動産を買い移住した。画才のある方であったので孫が油絵を学びたいと言ったときは応援してくれたとか。

友人のお父様は明石駅徒歩圏内に不動産を買った。お祖母様は同居で高齢になりベッドで過ごすことが増えた晩年に阪神淡路大震災がきて、彼女の上にタンスが倒れてきたが、ベッドの柵に守られて助かった。

関東大震災で神戸に住み、阪神淡路大震災を大変されたお祖母様は今は故人。

 

 

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↓私が入手した中澤弘光の震災図。このシリーズは江戸東京博物館にも数点ある。
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義父の親戚が撮影した岸田劉生家族。
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↓去年の日記から引用

『「九月七日(金)晴強雨あり、
朝の中片瀬の写真屋が通つて購買組合を開いたのでそれと分り、こわれた宅の前と二宮さんの仮居の前と、写真二枚づゝ写してもらつた」
岸田劉生の日記より。

この写真1️⃣を撮影したのが、片瀬写真館の初代熊谷治純、写真2️⃣左、中央熊谷登久平。治純は岩手県千厩の熊谷登久平の生家日野屋から江戸に出て財をなし、横浜開港に携わった熊谷伊助の孫。

伊助は熊谷登久平の曾祖父の兄であり、治純と登久平の関係は三従兄弟(みいとこ)。

写真2️⃣は大正10年頃、登久平が上京し訪ねた頃と伝わるけど、憧れていた萬鐵五郎を訪ねた時と夫は聞いていた。』

 

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今日に日付が変わる前後にまた私には鬱な話しがきた。私が悪いらしいが、何をどうしたらなんとかなるのか本当にわからない。これが中学時代に教師から母が言われた「知能指数が高い知恵遅れ」ってものだろうが、わからないものはわからない。

なにをどうすれば良いのかわからないまま半世紀以上生きてきた。これをこれからも重ねて唐突に怒鳴られたりしながら生きるのは面倒。

なので、夫に軽く心中をもちかけたが思いっきり拒否られた。

 

朝から体調がいまいち、つかずっと頭痛やめまい。今日は呂律が回らない症状が出てる。

話しにくい。

6月の血液検査では正常の範囲内だったのに。

 

私の医療費が私の感覚では半端ない。

でも定期的に検査をして薬を服用していないと記憶が欠落したり、ふらついたりするのはもう嫌なので、悩ましい。 

一つの対処療法はやめた。

月の固定医療費が一つ節約できた。

 

 

預かってきたフイルムの中身がどんどん可視化されて昭和初期の動画に残る人々の生き生きとした、なんというか。

海水浴の水着がお洒落だったり。

この後に『足らぬ足らぬは工夫が足らぬ』の時代がくる。

 

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