熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

熊谷登久平 まひる まひる野 ねずみでた

熊谷登久平生前の冊子(ねんきん・社会保険)などの紹介文に「まひる野」同人の一文がある。

まひる野ってあの早稲田のまひる野?」

夫に訊ねると「分からない」

 

早稲田大学に資料があるかもなので問い合わせをしようかと考えたけど、ある程度調べてからでないと問い合わせもできない。

 

 

熊谷登久平が、戦前、美術団体の白日会の仲間たちと「まひる」という同人を立ち上げ短歌の会的なこともやり冊子を出していた的なことは、義父の画仲間の野口良一呂の遺作集に書かれており、またありがたいことに古書店さんがまひるのメンバーが載っている美術雑誌を見つけてくださり入手できた。

短歌の師は長谷川利行であると義父が書き残しているし、昭和16年には熊谷登久平「畫と文」という書籍を出している。

つまり戦前の「まひる」に関しての資料はある。

 

一関市で開催した「鬼才長谷川利行と二人 : 熊谷登久平・矢野茫土(矢野文夫) 一関ゆかりの画家生誕百年」展の書籍には熊谷登久平は文章が上手いとはいえない的な記述があり、長谷川利行のことを書いたものは良い的な感じで、長谷川利行や物書きで日本画家の矢野文夫と比べてイマイチ的な扱いであった。(私個人の感想です)

 

まひる野」同人であった熊谷登久平。とは?

 

まひる野は私には別格の世界であり、まひる野に属していたとの一文は白日会時代の「まひる」が混ざったのだろうと思い込んでいた。

まず、我が家に資料がなかった。

図書館で調べてもその時は出なかった。

だから……考えるのをやめていた。

 

それが去年12月国会図書館デジタルアーカイブが飛躍どころじゃなく神進化を遂げ熊谷登久平で検索をしてヒットする数が増え。まひる野同人としての熊谷登久平も出てくるようになった。

年度内の優秀な短歌を収録した書籍に作品がいくつか掲載されているのも見つけた。

https://www.yanaka.blog/entry/2022/12/27/%E9%A1%9E%E5%88%A5%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%9F%AD%E6%AD%8C%E5%85%A8%E9%9B%86%E3%81%A8%E7%86%8A%E8%B0%B7%E7%99%BB%E4%B9%85%E5%B9%B3

 

凄いよ国会図書館

 

おかげさまで熊谷登久平はまひる野同人でもあったと堂々と書けるようになった。

 

そして、ヤフオクに熊谷登久平が1960年、昭和35年5月12日に歌人窪田章一郎に宛てた書簡が出品されていた。

 

章一郎は、歌集「まひる野」あの長歌「捕虜の死」の窪田空穂のご子息で、戦後早稲田系の『まひる野』を創刊主宰した人。

 

まひる野との接点資料だわ。

 

これを出した業者さん他にも窪田章一郎関係のものを沢山出されていてご遺族が手放されたのだろうかと問い合わせたところ、市で纏めて落札されたとのこと。

去年からヤフオクに章一郎氏の遺品が出ており中には宮内庁関係まであった。

章一郎氏は 2001年4月15日に亡くなられている。20年遺族の手元にあったのだろうか。

遺品を残すのは楽ではなく、今まで置いておいてくださりありがとうございました的な気持ちであり、業者さんには一まとめで出品せず義父の達筆を読み取り出品してくださりありがとうございますでした。

この前はたまたま画像に義父の達筆なサインがあったので見つけたものもあったりして。

裏どり資料を探すの結構大変。

 

 

↓落札しました。

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↓去年の出品、業者は異なる。

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今日もだが昨日も暑く、窓を開けていた。

未明、偉大なる猫のにゃあちゃんがイキヨイねずみを持ってきた。

私にくれた。

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『捕虜の死   窪田空穂

 

シベリアの涯なき曠野、イルクーツクチェレンホーボの バイカル湖越えたるあなた、炭山を近く望みて あはれなる宿舎むらがる。名にこそは宿舎ともいへ、土浅く廣く掘りては かりそめの仮屋根葺き 出入り口一つ設けし 床すらもあらぬ土室、戦前は囚人住みて 勞役に服せるあとか。かかる室ならび群がり 鐵條網めぐらす内に、在満の我が兵五千 捕虜として入れられにける。

 

 厳冬のチェレンホーボは 氷點下五六十度か、言絶ゆる畏き寒威 人間の感覚を斷ち、おのが息眞白き見ては 命なほありと思ふに、勞役の搾取のほかは 思ふなき國にかあらし 働かぬ冬は食ふなと 生きの命つなぐに足らぬ 高粱のいささか與へ 粥として食はしむるのみ。夜となれば床なきままに、土に置く狭き板の上 押竝び二人いねては、一枚の毛布をかぶりて 軆温をかよはし眠る。目的を失へるどち 言ふことの何のあらむや、つぶやくは常つづく饑 眼に迫る戀しき祖國、口にすれば暫しまぎるる かひあらぬ訴のみなる。

 

 わりなきはただ一着の 身につくる軍服かな、薄くして寒氣のとおり、著きらしてぼろぼろなるに、著がへなきそのシャツをしも、おのれ等が巣どころとなし 饑うる身を食となしつつ ふえにふゆる虱の族よ、その數は幾そくばくぞ。臍のあたり手もて探せばいく匹をとらへは得れど、脱げば身のこほる寒氣に 捕り減らすことすらならぬ。全員の五千に巣くふ この虱チフス菌もち、吸ひし血に代へて殘せば、あはれ見よ忽ちにして大方は病者となりつ、高熱にあへぎにあへぐ。醫師をらず薬餌のあらず、あるものは高粱のみの、この患者いかにかすべき。悲しきは生を欲する 人間の本性なるよ、食はざれば死せむと思ひ 強ひてすする堅きその粥、衰へし腸ををかして 一たびの下痢を起せば、その下痢やとまる時なく 見る見るに面形かはり、物言ひをしつつ息絶ゆ。ここの水ははなはだ惡るし 高熱の渇きこらへて 飲むな夢と相警むれ、飲まざるも命堪へえで 一日に何十人は 息せざる者となりゆく。チェレンホーボ長き一冬、千人や屍軆となりし。

 

 戦友のこの悲しきを いかさまに葬りなむか、全土ただ大氷塊の 堀りぬべき土のあるなし。ダイナマイト轟かしめて 氷塊に大き穴うがち、動きうる人ら掻き抱き その中にをさめ隠しつ。初夏の日に氷うすらぎ あらはるる屍軆を見れば、死ぬる日の面形保ち さながらに氷れるあはれさ。その屍軆トラックに積み 囚人の共同墓地ある 程近き岡に運びて、一穴に五人を葬り、捕虜番號書ける墓標を 人の身の形見とはなし、千人の戦友の墓 さびしくも築き竝べけり。

 

 死を期して祖國を出でし 國防の兵なる彼等、その死のいかにありとも 今更に嘆くとはせじ。さあれ思ふ捕虜なる兵は いにしへの奴隷にはあらず、人外の者と見なして 勞力の搾取をする 奴隷をば今に見むとは。彼等皆死せるにあらず 殺されて死にゆけるなり、家畜にも劣るさまもて 殺されて死にゆけるなり。嘆かずてあり得むやは。この中に吾子まじれり、むごきかな あはれむごきかな かはゆき吾子。

 八月は千万の死のたましずめ夾竹桃重し満開の花 』

『 兵として北支派遣軍下にありし次男茂二郎、久しく消息を絶ち、生死すら不明にて過ごせるが、五月中旬、茂二郎が戦友の一人なりといふ米村英男君、はからずも我が家を訪はれ、茂二郎の消息を傳へらる。同君も茂二郎と同じく身體弱きため、入隊以来三年間、あやしくも行動を共にし、その一切を知悉せるにより、仔細に告げられしなり。茂二郎は終戦直前、北支より内地防衛軍に向けられし汽車中、ソ聯開戦によりて満州に移され、終戦と共に捕虜としてシベリアなるイルクーツクチェレンホーボに捕虜の身となれるが、二十一年二月十日、発疹チフスに罹り、死去せりといふ。今より一年三箇月前のことなり。我は床上の身として親しく聴くを得ず、章一郎の傳ふるところを聴きて胸臆に反芻するのみ。』