反戦画家と言っても良いと思っている池田龍雄先生が亡くなられた。
第13期海軍飛行予科練習生から飛行練習生過程を経て17歳の年に特攻隊員として終戦を迎えた。
敗戦後学業に戻るも予科練の甲飛13期で飛練を出たものは一時期学業に進めず辛い思いをしている。
その後多摩美で学び画家となる。
同じく予科練の甲飛の13期出身の画家に高塚篤さんは東京新聞2005年8月20日の夕刊夕刊で
「予科練出身で航空特攻要員だった画家高塚篤さん(78)=東京都世田谷区=は「母校の旧制米子中学で全員志願の決議があった」と指摘。「当時の教師たちは、国からの指示でより多くの生徒の予科練志願を競った」と証言する。」
この高塚先生には取材で随分と世話になり、池田龍雄先生の話も教えていただいていた。
13期の募集には各旧制中学に動員ノルマが課されたと言われており大勢の全国の中学生たちが入った。今手元に資料がないが、12期で突然人数が増えて13期でかなり増えていた筈だ。
そのため入所の時期を当局はずらした。飛行機を使った練習ができたのは初期組で中学で滑空を習っていたものを除くと、比叡山を滑走路にした人間ロケット桜花や、ベニヤの小型特攻艇の震洋、人間魚雷の回天、海中に潜んで敵の上陸艇を爆薬のついた槍で闘う伏龍などほぼ飛べない。
NHKの朝ドラのエールで予科練の歌で憧れて志願した少年が描かれたが、予科練の歌を主題歌とした映画撮影のエキストラが13期だ。
なのでエールに出ていた予科練に志願した少年はほぼ飛んでない。
滑空部にいたなら滑空特攻の要員として練習をしていたかもしれない。
池田先生と同じく飛べた組には操縦でゼロ観で沖縄で散った17歳もいた。この取材はご遺族にかなり泣かれて切なかった。一緒に飛んで機体の不良で不時着をし助かった方は複雑な思いを50年以上抱えておられた。
予科練の甲飛の13期で飛練を出た人、その生き残り組の1人であった池田龍雄先生。
ご冥福をお祈りいたします。
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