義父の生まれ故郷の千厩の歴史的写真を見ると、桑で裕福だった時代の賑わっているのが沢山残っている。
義父の兄弟は、義父の夢の犠牲となり大学に行かせてもらえなかった広介さん以外は大学進学をして、義父の叔父さんや従兄弟たちも東京の大学に進学している。
大正戦前の昭和で東北から生活費も仕送りで大学に進学させる家は裕福だと私は思う。
義父たちが群れていた人たちの多くが庶民ではなくて、勤労画学生もいたけれど同じ頃東京に溢れていた貧民層とは異なっている。
義父が苦労したと語る実父からの仕送りが絶えた期間は長いけど、金持ちのボンボンだった義父は一年ほどで倒れて、慌てた母親の実家や親戚たちが父親に内緒で仕送りをしたと聞いている。
仕送りをしてくれた家に義父は絵を送ったので、それらの家には義父の初期の絵がある。
義父の初期の絵、戦前の絵のかなりを義父は歳下の従弟と一緒に田端から千厩に疎開させたが、それらの多くが千厩の実家から消えて、義父は弟の広介さんを疑い、広介さんはそれをかなり辛い思い出として、遊びに行った夫に「盗んだのは俺じゃない」と、語ったそうだ。
仲の良い兄弟で、義父は長男なので威張っていたようだが広介さんとの写真もアルバムの中に何枚かある。
広介さんは義父に振り回されたようにも思うが、仲は良い。彼が軍曹になった時には肖像画を描いてもいる。その絵も疎開で行方不明になった。
とかだらだら書いているけど、夫や親戚からかつて義父の生家が岩手県の長者番付で一位だった時代があると聞いている。
それを証明できるものを探している。
なかなか見つからない。
図書館で岩手県の新聞を読まないとだけど、国会図書館は今コロナ禍対策で私には使いにくい。
義父が尊敬している同じ生家の熊谷伊助の資料は片瀬写真館の先代によると、横浜市に貸して関東大震災で焼けたそうだ。
井伊家との繋がりや横浜開港時の資料、ペリー来日時の資料、あったかも知れないとなっている。
ペリーの名刺が残っているだけでも良かった。
関東大震災の時の資料が焼けた話し、横浜市は市史編纂のためにあちこちから一次資料を借りていて、そこに関東大震災がきて、市役所に火が入り人が逃げるので精一杯だったと伝わる。
その後横浜市長が謝罪文をあちこちに出して、その、謝罪文も今度は横浜空襲で焼けて、それでも今でもたまに出てくるとか。
私が読みたいのは謝罪文ではなく、横浜の熊谷家が持っていたという黒船関係の資料とかだなぁ。
残念すぎる。