熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

東京大空襲の慰霊祭

昨日は上野公園で東京大空襲慰霊祭がある予定だったが中止になった。
両国、隅田公園などの慰霊祭も中止になり、東京都の縮小した慰霊祭が開かれただけなのかな。
私は東京大空襲を若い頃に調べていた。その関係で東京大空襲に参加したB-29の搭乗員たちと連絡を取り合い、互いに訪問しあった。
戦後50年の頃、B-29の銃手の一人、ハリー・ミッチェルさんに、戦後の神奈川県知事の内山さんの次男さんの紹介で出会った。
ミッチェルさんは焼夷弾を落とした人であり、溶鉱炉のような東京下町を機内から見ている。
彼は東京都の慰霊祭に参加することを望み、私は東京都に公式で参加できないかと交渉をしたが、都は大空襲被害者や遺族が多く参加する慰霊祭でB-29搭乗員がスピーチをすることへの反発を恐れて一般参加をする様に求めてきた。
で、そうした。
ミッチェルは多くの慰霊碑を巡った。その中には浅草寺の観音様の加護を信じて本堂に逃げ込み焼け死んだ方々の慰霊碑や、上野公園の仮葬場所跡地、上野公園の東照宮にある原爆の慰霊碑などがある。
この頃、米国の戦友会はスミソニアン博物館が原爆の加害を展示しようとしている事に反対をし、ミッチェルは反対派だった。
彼の戦友には空襲や原爆の罪も認めるべきだと言う人もいて、彼らの戦友会誌は大荒れしていた。
その会誌はシカゴの大手新聞社の記者だったメンバーが編集をしており、またB-29搭乗員の多くは戦後に大学に行く機会が与えられインテリも多かった。
彼らの討論は理詰であったりもしたが、原爆がなければ日本本土上陸戦が始まり日本人も自分たちももっと死んだであろうとの意見が多かった。
上野東照宮のその頃の宮司は原爆被害者に寄り添う方で、写真展示もあった。
それを私はミッチェルに見せた。

食事は上野公園の精養軒で予約をして食べた。
窓から見える横山大観邸も焼けたと話した。
上野公園に逃げ込むまでに多くの人が亡くなった話などもした。
またミッチェルさんの親友のパードンの機が墜落した尾久大橋周辺も案内し、搭乗員たちが埋められていた墓がある寺にも同行した。

彼はある程度覚悟をして来日して慰霊に歩いた。
空襲被害者の一人である私の母にも会いたがったが、母は拒否した。

新聞などに彼が紹介されていたので、声をかけてくる被害者の方もおられた。
マスコミの紹介でお会いした被害者もいた。

繊細な旅であり、案内役の私はとても気をつけた。
彼は繰り返してはいけない事として絨毯爆撃を語るが、ジェノサイドと言われるのは嫌がる。
ある人が無差別攻撃と言わずにストレートにジェノサイドと日本的な発音で言った時に彼は敏感に反応した。

彼は軍人であった。

善良な市民であり夫であり父であった。

私には日本の娘と言い色々話してくれた。
多くのことが繊細だった。

私は沢山のB-29搭乗員に会ってきた。
それを落とす側の帝都防衛網の日本の兵たちにも会ってきた。
高射砲部隊、陸海の航空隊、千住の緑町の住民たちを守るために脱出せず隅田川に機体を突っ込んだ屠龍、その顔を見ていた緑町の人たちは遺体をかき集めた。

直撃弾を受け多くの戦死者を出した高射砲部隊は、焼け出された人たちのために自分たちの食事を減らして炊き出しをした。
上野公園の噴水あたりや、かつてあった後楽園球場の中も高射砲部隊がいた。
彼らは実はB-29を落としていた。
ミッチェルの親友の機も高射砲が落とした。彼はそれを見ていた。

B-29は落ちた。
しかし損失機は9機。
焼け出された人々はクウキと空気と重ねて噂した。
10万人を超す空襲犠牲者、それに対して落としたのは9機。

この9機の搭乗員たちにも家族はいて、彼らは遺族となり彼らにとって唯一の大切な人を失った戦争。

ミッチェルは搭乗員として空襲に参加したのは仕事であり命じられたら同じことをすると語っていた。
だから孫たちに同じことをさせないために彼は頑張り戦友会の会長をして、東京都の慰霊祭に参加したのだけど、あの頃はまだ戦後50年だったから空襲被害者に伝わりにくく、そして伝わったのだろうかと今日上野公園の慰霊碑を見ながら思った。

ミッチェルは心臓が悪かった。
でもいける限りの慰霊碑をまわった。
静岡の慰霊祭にも参加した。
九州に落ちた戦友のお母様を連れてきたいと頑張っていたけど、二回の日本訪問後に心臓発作で亡くなった。

今日はミッチェル夫妻と食事をした精養軒でランチをした。
いつもは混んでいて待ち時間がある精養軒。
でも今日は予約なしでもスルッと入れるほど、コロナウイルスの影響で客足は遠のいていた。
2時間居座った。
来客は私たちを含めて4組。

戦後50年の時の精養軒は予約をして席を取り、満席だった。
あの時の英字新聞の記者も同席した。

今日は主婦友だちと2人でランチ。
がら空きの精養軒で対岸を見る。あそこにあった高名な画家の屋敷は焼けたと話した時、法華クラブの建物と東天紅ぐらいが高層だったか。
今はタワマンが横山大観邸を取り囲んでいて本郷台の緑は見えなかった。
あそこにあった家々が焼けたとは想像しにくいだろう。

あの時、20代だった私も歳をとり、取材してきた日米の戦争体験者たちも殆ど亡くなられた。
中には空襲や戦争への不条理な怒りを私にぶつける方もいたし、塩もまかれた。
あの頃の取材は本当に沢山の繊細なことが入り組んだものだった。

戦争反対を叫ぶのは簡単だ。
でもほんの少しの流れが大きな流れになり当事者になったとき、抵抗し切れるのかと私は私に問うが、自信はない。