熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

#岡倉天心 旧邸あと

岡倉天心は何度も転居をしているが、美學校校長時代に天心が住んだと伝わる我が家。

以前も書いたが登記簿で遡れるのは美學校の二代目校長の高嶺秀夫と三代目の久保田鼎で、それ以前は東京の土地となっている。

それは元々の持ち主の瑞輪寺が幕府との繋がりが強く、上野戦争時に彰義隊につきうちの前でも門前を守っていた彰義隊士がわらわらと戦死し、瑞輪寺は新政府軍に山門を焼かれた。


その関係で取り上げられた土地が今の日本美術院と我が家の場所で、明治四十時代の地図で確認すると岡倉天心旧邸となる。

参照 江戸明治東京重ね地図
https://jhico.org/emt-s

登記簿で確認すると高嶺氏のあとは久保田氏の土地となり、久保田校長は美學校のあれこれの精算に苦しんだのか土地の一部を手放したあと買い戻している。
これも前に書いたが久保田鼎氏には実子がおらず奈良の養子が跡を継ぎ土地もその名義となるが、日本美術院と天心の弟子の横山大観たちが分筆して所有した。
大観たちが少しずつ所有したのは当時の美術院では資金が足らなかったためで、それぞれ死後に美術院に寄付されるよう登記されていた。

我が家の場所は久保田鼎氏の養子がしばらく住み、その後我が家では大工と伝わる人が所有した。
天心の旧邸としてたまに公開もしていたらしいが証拠はない。
大観先生が買おうとしたが高く、荒れ始めていた家は谷中に集う若い画家たちの憧れの場所でもあり、熊谷登久平は岩手県千厩の豪商であった父に頼み込んでここを買い、その頃登久平の実質的妻であった絹子は孫として可愛がっていた登久平が他の女に生ませた長男と次男に「長谷川利行を探し回っていた」と話す。
この、長谷川利行を探し回っていたは、利行が天城画廊に軟禁されて絵を描くようになってから疎遠になり、その後であろうがもう関係者全員なくなっているから。
頼んでいた矢野文夫氏から利行の居場所を聞いたときにはもう亡くなる前で、会えず、利行は亡くなる。







https://www.geidai.ac.jp/outline/introduction/former