熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

横浜と熊谷伊助と岡倉天心と熊谷登久平と資料

洋画に進んだ熊谷登久平が岡倉天心にも憧れ荒れていた旧宅を買い綺麗にリフォームしたわけだけど、次男である寿郎にも天心語りをしていた。
天心は横浜の有力者の子ども。
熊谷家も横浜で伊助が活躍して有力者になっていた。
開港と開発の頃の横浜は狭い。
横浜開港資料館の館長さんが登久平の甥であり可愛がっていた英三さん宅に調べに行ったはずなので問い合わせた。
横浜は関東大震災と空襲のため多くの資料が失われており、その頃の資料はあまりないそうだが熊谷伊助の商売の規模と岡倉天心の家の規模を考えると知り合いであっても不自然ではないそうだ。
まあ残念ながら資料はない。
筆まめな伊助からの手紙が沢山生家に残っているが、それらはほぼ手付かず。
中にヒントがあれば良いけど、くずし字文書。
飛散することなく今もあることが奇跡に思える。

熊谷登久平の中央大学時代の資料も関東大震災で失われている。
卒業記録はあるし登久平がスクラップしていた新聞記事やアルバムの写真で美術サークルを作り、応援団の団長であったこともわかる。が、中央大学には記録がなく、美術サークルは画商の人が始めたのが元祖的な記録となっているし応援団も当時はなかったとなっている。
当時、中央大学になかったと言えば野球部で、野球人数が足らない都心の旧制大学のメンバーで野球サークルをやっていた。
が、これも記録が中央大学にはなく、野球博物館の図書館に問い合わせた。
そしてまだ未整理の部分で私が絨毯爆撃的に調べられる資料の存在はあるそうだ。
デジタル化する前の国会図書館の憲政資料室でやったことを21世紀にやるのか私。

もう老眼ですよ私。

市川市勝海舟による熊谷伊助への歌碑。
もうだいぶ調べたので、片瀬江ノ島写真館の熊谷伊助のご子孫でルーツが熊谷登久平と同じ家の当主さんに報告した。
歌碑が勝海舟が女を偲んだものとなっていること、直系のご当主も驚かれていた。
先代は鉄分濃かったと知り、夫と同じルーツだなあと。
伊助は本妻との間には子ができなかったが外にはできて養子に迎えたとの話もある。
幕末維新ならあるだろうってことで。

市川市の熊谷伊助の歌碑が、勝海舟のお手つき女性を思った悲恋の歌碑となっていること、横浜開港資料館の館長もご存じなくて驚いておられた。
説明文を書いた部署が市川市の歴史博物館でも文学資料室でもなく観光系の部署らしく訂正してもらうのが難しいとか話した。
熊谷登久平の生家に歌碑を建てた時の拓本が残っていて、伊助を偲んだもので間違い無いのだがお役所仕事は難しい。
また市川市の名誉市民になっておられる歴史家が商業書籍で発表してしまっているうえ、立看板がドーンなので史実は塗り変わっているところだ。

お寺の住職夫人も戸惑っておられる。
どこをどうすれば書き換えてくれるのだろうか市川市