熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

ケンタッキーフライドチキン

我が家から一番近いケンタッキーフライドチキンから不忍池を見る。

昔、上野公園の出口あたりに揚げ出し豆腐の店があったらしく、熊谷登久平と長谷川利行や愉快な仲間たちがよく行っていたようだ。
1930年協会に参加した若い画家たちはヤンチャで取っ組み合いの喧嘩もして、社会運動に参加したり、転向したり。
その元祖イェーイ系たちの集団はモダンボーイでもあって浅草でもヤンチャをして川端康成の創作意欲を掻き立てた系な雑談も聞いたけど証拠はない。

裏地が赤い広袖を着て、フルエーフルエーと叫んでいた中央大学応援団団長の熊谷登久平の写真も昔は生家に残っていたようだけど、捨ててはいないそうだけど、広い家なので行方不明だ。

熊公という愛称だけが当時の新聞記事に残っている。

その熊谷登久平の遺品と著作権とか持っているのは夫だ。そこに私が嫁いだから許可を得てガサゴソして夫からしたら普通の遺品が、博物館で近現代の調査員をやっていた経験のある私からしたらお宝。
それで台東区に連絡をしたら美術の学芸員がいなかった。それどころか区役所にいる学芸員さんが非正規だった。
調査員が非正規ならわかるんだけど、長期間調べて纏めるはずの学芸員が非正規だから契約切れたら居られない。
文明開化の音がしまくっていた浅草区下谷区を抱えている台東区学芸員が少ないというのは寝込みそうになるぐらいショックだったです。

とかで、いつかは誰かが学術的な資料とするかも知れないものは足立区立郷土博物館に預けるのです。
下水は分流だし、収蔵庫は二階と三階だし、土建屋と仲良かった古庄時代の箱物だから頑丈だ。
デザイン変だとか色々言われた建物ではあるが、戦争とキャサリン台風を経験した古庄さんと佐々木教育長時代は信頼できる。