熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

自然のままで生活できるわけはない。

多摩川の氾濫はくねくね曲がっていた自然の川を真っ直ぐにしたからだと言っている人がいるけど、起伏に富んだ日本の国土の中で人が快適に住める土地はわずか。
適度な高さと地盤の強さを持った利便性の高い都合の良い土地だらけなら良いねとしか言えない。



「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」

「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」

徳川家小菅御殿を守るための治水の伝承。
今は小菅拘置所となっている場所には将軍家の御殿があった。
幕府は暴れ川であった綾瀬川が氾濫した時に御殿が水没しないように御殿側の堰を高く反対側を低く作った。
そのため……

https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/kids-hanashi-02.html
この伝承、私は昭和62年に松谷みよ子先生から教えて頂いた。
先生は戦争関係の伝承を集めておられたかな。
引き揚げの時に人魂が母子を導く話は怖く、悲しかった。

松谷みよ子先生が伝承を元に書いた中に「龍の子たろう」だっけながあった。
湖が一夜で消えると肥沃な土地が現れる。
これは熊本の阿蘇にも似たような伝承があった。

蛇が川を登り龍になる。
鯉が滝を登り龍になる。
龍が恋人に会うために川を下ると村は大洪水に襲われる。
川が近いと水田を作るのには便利だが水に襲われる可能性も上がる。
だから集落は少し小高い自然堤防上にあることが多い。
隅田川の自然堤防上にあるのは浅草寺
洪水の時や震災の時、人々が避難する場所でもあった。

江戸時代の江戸の住宅地は幕府による管理がある程度されていたが、明治になると居住に向かない田地や沼地にも家が建ち始め、明治43年の台風による河川の氾濫と堤防決壊は東京の下町に大きな被害をもたらした。

https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/242/

自然堤防の少し高台にある浅草寺に逃げ込んだ被災者も多かった。

この明治の洪水をきっかけに政府は荒川放水路などの大掛かりな治水事業を行った。

荒川放水路のために消滅した村が足立区にはある。
それでも必要な治水事業だった。


明治の洪水や関東大震災の時、浅草寺に逃げ込んだ人々は救われたが、空から焼夷弾がどんどん落ちてくる東京大空襲の時は、逃げ込んだ人々と共に本堂は焼け落ちた。

今日は雀が可愛かった。