熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

#熊谷登久平 のお弟子さん。

義父 #熊谷登久平 のお弟子さんで、私が10代の頃に既に神戸の美術展に作品が飾られていた女性画家さんからお電話を頂戴した。昔憧れ、今はもう恐れ多い方。
お声を聞けてドキドキした。

彼女の記憶の中の私の夫は、いつもピアノを弾いてる幼い坊ちゃんで家はお屋敷。
義父は晩年毎年一回三越本店で個展を開いていて、それだけで食べられた時代。

熊谷登久平は長谷川利行の晩年と死後を見てて、画廊嫌いになり、絵を描く為に絵を描くのではなく、絵を好きに描ける兼業画家となった。

東京航空計器の役員として戦後の混乱期に会社に残っている技術で作れる映写機を発案して会社の危機を救ったと語っていたらしいし、役員時代の工業新聞の記事も現存する。

そのお給料が結構良かったらしいのか、弟子の会のバリベア会の謝礼も年に酒二本だった。

晩年の五年間はお弟子を通じて個展開催を求めてきてくださった三越本店さんで絵を売った。

その時代の女性のお弟子さんはバリベア会にもいたが、個人のお弟子さんもいらしたようで、彼女もその一人。

子連れのお弟子さんで、夫も覚えていたが、他にも子連れがいたようで、お義母さまや子守さんがお子さんをみたり、夫も一緒に遊んだ覚えがあるお子さんもいるそうだ。
子連れ大丈夫な画壇の先生が教えてくれる絵画教室ってすごくいいな。

つい、「セクハラとかされませんでしたか」とたずねたら、なかったとのことでホッとしました。素人には手を出さない人だったそうだけど、確認できて良かった。

彼女の中の義母はテキパキとした女性だったけど、義父亡き後の憔悴ぶりは別人のようだったと話してくださった。
本当に同じ人かと思うほどだったそうだ。
この間にこの家から色んなものが持ち去られている。
泥棒も入ったし。

義母は本当に義父が好きだったんだなあと。

ただ、お弟子さんに「他にも女がいるんですよ」と、漏らしたとか。
この頃の愛人はSさんという未亡人だ。
屋敷で人手が足りない時は手伝いに入っていたと夫から聞いてきたので、公認だったろうけど、辛さもあったのかな。

夫から聞いていた義父の死後の義母の憔悴、覚えている方からお話を聞けて良かった。

彼女は来年も老舗の企画画廊で個展を開く。



愛人さんに関しては別邸を売った金から幾許か渡したと聞いている,


この時代は成功した男性は愛人を結構囲っていたので、私の友人のお祖父様も小説になるぐらい艶福家で、妻妾同居の家だった。
山本五十六もいたし、田中角栄にも松下幸之助にもいたし。大倉喜七郎さんの妾宅なんて豪邸だし、母の友人の旦那さんは宮様の落とし胤の子で、やはり浅草区の豪邸に住んでいたし以下略。