長谷川利行は熊谷登久平と飲みにいき絵を描きあい、義父の登久平は晩年に一番楽しい時代だったと回想をしている。
矢野文夫と三人で出かけることもあれば、二人で出かけることもあったようで我が家にはその断片がある。
全てが未整理であり、岩手県の新聞社の社長となった方が義父の資料を整理しようとした痕跡はあるけれども、亡くなられたようだ。この方に話を聞けたらと思うこともある。
戦前に亡くなられた長谷川利行さんの資料が整理されてて、戦後も生きた義父の痕跡が消えていきつつあるのは残念だ。でも義父が利行を思って書いた文を読むと、長谷川利行の絵が多くの人に受け入れられているのは当然なのかもしれない。
義父はかなり忘れられている。
絵があるとされている美術館に問い合わせても、数日後にくる「記録はあるが、今度機会があれば調べる」という返答も聞き飽きてきた。
仙台空襲の時に某所局長が一番に避難させたと新聞記事にある絵も行方不明だ。
また気仙沼を愛した義父の記事で紙面を何度も飾ってくれた気仙沼の新聞社ももうない。
我が家に残る黄ばんだ気仙沼新聞は私の昔の勤務先に預け、酸性化を遅らせることはできたが、誰かの役に立つ日はくるのだろうか。
数年前にヤフオクに出ていた絵で岩手県の公的施設にあったもので津波の被害を受けたという絵の持ち主や、とっさにナイフで自分の血を使い描きあげたという気仙沼の漁船の絵の行方も、私が問い合わせている範囲では不明だ。
私が伝承化しつつある夫の父親の史実を知りたがるのは、私が夫の子を生めない状態で妻になったという、古臭い良妻賢母の形から抜けられないからだと思いつつ。
調べるという面白さも、歴史調査員や物書き時代に経験していて、そのパズルの中のピースを見つける快感が忘れられていないのだなとも思う。
長谷川利行は多くの方が研究しているし、書いておられる。
しかし、矢野文夫と熊谷登久平の長谷川利行を語れるのは自分だという壮年期の主張を読むのも結構面白い。
熊谷と矢野の利行亡き後の微妙な距離感。
矢野の連絡を切り抜いて他の利行を偲ぶ宝物と一緒に大切に持っていたのを見ると、義父熊谷登久平がもう少し長くいきていたら書きあがった物語もあったのではないかと、義父の書き損じた原稿用紙に残る文字に思う。