私は以前、占守島でソ連軍と戦った戦車隊の士魂部隊の生き残りの方々に話しを聞いて回ったことがある。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%A0%E5%AE%88%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
当時私は戦記雑誌の「丸」の別冊丸 で長期連載を持っていて、その中で士魂部隊を取り上げた。
記事になったのは2000年ごろかな、手元に本がないからうろ覚えだが、当時は占守島の戦いはあまり知られておらず、同人誌に少し書いたらコミケスタッフの岩田次夫さんが褒めてくださり驚いたこともある。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%94%B0%E6%AC%A1%E5%A4%AB
岩田さんとは共通の知人も多く、当時のパソコン通信のニフティの会議室などでも会話をしていたが、まさか私の同人誌を買ってくださるとは思っていなかった。
あの頃は流通している商業誌の中には占守島の戦いが書かれたものが少なく、私は戦友会を訪ねて、一番近い所で川口市、大田区、岡山県の津山市、戦後関係者が入植した少年戦車学校の跡地である富士山の裾野。
ここには若獅子神社があるが、これは元々は戦車学校出の戦死者の追悼施設で、戦車学校で教員を務めたベテランも含めて跡地に移住し開拓をして、学校の門を残して、遺品を収集し戦友会たちが守っておられた場所であった。
交通費が辛かった。
その分は他の仕事で補いながら話を聞いて回った。
驚いたのは、晩年の司馬遼太郎先生の痕跡がすべての取材先にあったことだ。
取材のお礼のハガキや手紙が残っていた。司馬先生は出陣により戦車学校に入った。
難しいことをごちゃごちゃ書くとマニアが怖いので、さらっと書くと戦争が長引いて兵隊が足らなくなり大学生の勉強期間を減らして繰り上げ卒業させて軍人にする制度で戦車部隊に入った。
その教育期間に属した戦車学校の校長先生が一時期、池田末男大佐で、池田大佐は占守島の戦いで有名な士魂部隊の隊長として戦死された。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E6%9C%AB%E7%94%B7
占守島の戦いや池田隊長のことはwikiで読んでください。私は今は介護離職をした専業主婦ですので、新しい情報を持っていませんから。
その占守島の戦いの慰霊祭が先日札幌であった。
三年ぶりであり、戦いに参加した将兵の御存命者は高齢だ。
https://www.hokkaido-np.co.jp/sp/amp/article/335817
昔は終戦の日に靖國神社でも士魂部隊の戦友会があったのだけど、今はない。
靖國神社のみたま祭りの士魂部隊の提灯の下には戦友会の方々が立っておられて、ご遺族がいらっしゃると当時を話し慰霊祭の案内をされていた。
それももうない。
昔は各提灯の下に生存者と御霊が集っていたけど、最後に行ったときはナンパ祭りとなっていた。
あれは悲しかった。
もしくは良いことなのかも知れない。
みたま祭りで涙を流して語り合う人が減っていったのは平和だからだ。全国から観光バスが集まった靖國神社駐車場は今は空いてる。
空いてると言えば、先日の占守島の慰霊祭の写真を見たが座席の間がある。
参加者が減ったのだろうか?
占守島への遺骨収集へ行った第一弾の時、戦車兵たちは既に白髪頭で、ご遺族を案内し、錆びた戦車から遺骨を拾い、または埋めた場所を掘り。
同期の遺体を埋めた場所に遺族を案内し掘ったが出なかった人はその場で号泣し、帰国後すぐに亡くなられた。ご遺族に戦友の遺骨を渡したかっただろう。遺骨収集が始まるまでの時間が長すぎた。
占守島でのソ連軍と日本軍の攻防戦が終わったあと、日本軍が勝ったのに彼らは捕虜となりシベリアに連れて行かれた。
戦友たちを占守島に置いていきたくないと、遺体の指を切り落として焼き骨として持って行った者もいた。
シベリアで死ぬものも出た。
遺言を皆で記憶した、誰かが帰国をしたらご遺族に伝えるために。
シベリアから帰国すると復員局の係が遺骨を回収した。
骨が遺族に届けられたかと気にしていた方もいた。
ご遺族の中には池田隊長の忘れ形見の池田誠さんがいる。
彼の名は池田隊長の御子息として知る方はマニアにはいるだろう。そして今は豊田市にある慰霊碑を守っておられる方でもあると私は聞いている。
池田誠氏の名は美術史にも実はある。
学徒出陣で戦死した美大生たちの作品を収集展示している無言館という美術館が、真田の地、長野県上田市にある。
ここは戦死した美大生たちに心打たれた方が開設した、彼らの作品を展示する美術館で私立だ。
土地は上田市が貸している。
ここを美術館を建てる費用は館長が身銭を切り、また全国から集まった浄財もあった。
この寄付金に対して税務署が所得税を半分もかけた。
すでに借金も背負っていた館長は嘆き、それが記事になった。全国から同情が集まったし、助言も集まったが政治色の強い助言もあった。
そこに愛知県豊田市に住む池田税理士から電話があり、池田税理士はすぐに駆けつけると膨大な寄付の資料を仕分け整理して税務署の課税が間違っいると、既に納めた分の返還交渉用の書類まで手弁当で用意した。
池田税理士が居なければ無言館は開館できなかったかもしれない。
でも、それはあまり知られていないようだ。
https://www.city.ueda.nagano.jp/kankojoho/shisetsu/museum/007.html
あ、同じ館長の貴重なコレクションを展示したデッサン館が休館してる。
デッサン大事なのに。
この無言館を救った池田税理士が士魂部隊の池田隊長の御子息の池田誠氏だ。
当時、池田税理士はそのことを一言も漏らさず、粛々と戦没美大生たちのための美術館のために動かれた。
これは聞いた話だったので、先日占守島の慰霊祭に参列される池田誠さんや士魂部隊の生存者に、擬人化した占守島から名をもらっただけの海防艦 占守の絵を見せて話を聞くと言っていた方に詳しくは書けなかった。
ただ察して欲しいとお願いした。
昨日夕方、うちから坂を下りたところにある古本屋の #ひるねこBOOKS さんにふらりと寄った。
なんと、無言館館長の窪島誠一郎氏が書いた「無言館ノオト」集英社新書があり軽く読んだら中に池田誠氏についての詳しい記述があった。
縁だわ。
即買った。
そしてツイッターで池田税理士の話しを呟いた。
艦これの占守ファンの若者に私が伝えたいことは届くだろうか。
まあ、言いたいことを書くまでに、相変わらずダラダラ脱線しまくってますが、慰霊祭に艦これのキャラ絵を持っていくのは良いけど、それを見せびらかしたり、積もる話がある方たちの語らいの場で、「これ占守ですよ、艦これで占守島の戦いをテーマにしたイベントがあるんですよ」とかは、少し考えて欲しいです。
私は加賀ちゃんが好きです。
再婚するまで使っていた財布は島風でした。
それはそれ、これはこれ。
よろしくお願いします。
あと、私は戦争を賛美しているのではなく、美化している気もありません。
その時代に育ったら反戦やりきる自信がないだけですし、体験したくないだけです。
今、少しずつ戦前に近づいているのが気になっています。