熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

墨田区 すみだ郷土文化資料館 空襲体験画ギャラリートーク

 https://www.city.sumida.lg.jp/smph/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/info/3108talk.html

墨田区立 すみだ郷土文化資料のイベント 空襲体験画ギャラリートーク「 空襲体験を話す、書く、描く」に参加してきた。

先月私が取材を受けたB-29墜落地の千葉県東庄町には墨田区の緑小学校の生徒たちが疎開をしていた。

その子どもたちは東京大空襲の直前に東京の親元に帰り被災している。

東庄の戦時を覚えている方はそれを気の毒だとおっしゃっていた。

私も気になって緑小学校に電話で尋ねたところ当時の記録はないとの返答。

しかし「ガラスのうさぎ」という戦中記録を書いた著者さんが緑小学校の生き残りであり、戦後しばらくして卒業式を兼ねた同窓会があり、全滅した家もあれば親が死んだり級友が死んでいたりと書いておられたので、何かしらの記録は残っているだろうと思いネットで検索を続けたら宇都宮市の方の手記を見つけた。

東庄町疎開していた方だ。

 

読んでいてふとこの人はB-29の墜落を見ていないのだろうか、20年前に聞いた破片を払わされていた疎開児童ではないのかと思った。

 

今日すみだ郷土文化資料館で色々と本を読んでみた。

破片を払わされた学童の記録は墨田区が編纂した学童疎開の記録の中にあった。

それは少年で他の寺に疎開していた緑小学校の学童だった。

 

記録といえば今は早乙女勝元先生たちが編纂した東京大空襲の記録がある。

戦後20年の頃に都が予算を出し、途中石油ショックの為に経費が足らなくなって講談社が支援した全5巻の書籍。私は早乙女先生から頂いたが、今は図書館や古本屋さんで見つけるしかないだろう。

この編纂に触発されて全国で空襲を記録する会が発足し書籍が次々と出たが、うろ覚えです。

が、この頃に語らなかった方もいる。

 

今日体験談を話された正木 安喜子さんがそうだ。彼女は姪が大学生の時に話をする場を用意されて話したのが語り部としての最初で、70代になっていた。

彼女の話は早乙女勝元先生たちが最近まとめられた本に載っているそうだ。

『あのとき子どもだった―東京大空襲21人の記録』

書店でも注文できるそうだ。

https://tokyo-sensai.net/archives/1018

江東区にある東京大空襲・戦災資料センターで買えるそうだけど、交通の便が悪い。

https://tokyo-sensai.net/

 

ここも大空襲で焼野原になった場所で一族が全滅した女性が戦後50年の頃に東京大空襲を記録する会に寄付した土地だったうろ覚え。

 

話を戻すが正木 安喜子さんは東京大空襲の時は小学6年生で、墨田区江東橋一丁目で空襲に遭っている。

その約半年前までは駿河台に住んでおられたが建物疎開のために家を壊されて江東橋一丁目にあった阿佐ヶ谷に引っ越した叔母の持家に引っ越した。

なので地域に馴染む前に空襲にあっておられるが現在の両国高校に逃げ込んで助かっている。

家族5人全員が助かっているが、それぞれバラバラになり3月10日に全員の無事を確認できたマレなケースだ。

家族とはぐれた時に助けてとお願いした子を背負った女性は自分にも子がいると言う。つまり助ける余裕がないのだ。その女性は翌日背負った子どもとともに焼死体になっていた。

 

この日、江東橋一丁目町会は200人以上が空襲で亡くなった。

彼女は家族と西に向かうが江東橋の堀や橋は遺体でいっぱいったそうだ。

 

彼女の体験談、機会があればお読みください。

図書館にリクエストしても良いと思う。

 

「販売再開! 『あのとき子どもだった―東京大空襲21人の記録』 好評につき初版が完売し、増刷中だった、21人の空襲体験記録集の第2刷が完成しました!」

 

 

話が飛びますが、私の家の裏の墓地には江東橋一丁目町会の慰霊碑がある。

早乙女勝元先生に連絡したがご存知なかった。

東京大空襲を記録する会の記録にも書かれていないし、戦後50年の時に空襲慰霊碑を探した会とも接触していたがこの碑の記録は覚えがない。

総務省の調査記録にも載ってない。

建立した方のお孫さんもご存知なかった。

以前はたくさんの人がお参りにいらしていたそうだけど、減っていき、1人だけになり、その方も何年も来なくなった。

その方は入院したと江東橋一丁目の会社の方から7月に聞いた。話はできる状態ではないそうだ。

 

この江東橋一丁目町会の慰霊碑には空襲への悲しみと戦争が繰り返されないことへの願いがこもっているのに忘れられていることは残念に思う。

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以下東庄町に墜落したB-29と、東庄町、旧神代村に疎開していた緑小学校の生存者の記録。

 

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http://www.ucatv.ne.jp/~itutetu/pfg/sg-1.html

 

「東京・宇都宮を結ぶ空襲の記憶 (証言 1)

東京空襲の記憶   

寄稿=桑久保(旧姓 星)光子
             

家族 父(警察官)母 姉(女学生)私
              

住所 東京都本所区(現墨田区)緑町二丁目十六番地
             

昭和十四年四月緑國民学校入学

ガラスのうさぎ」の著者  高木敏子さんと同級生

 

 

 大東亜戦争が激しくなり、六年生の一学期頃。私たちは、縁故疎開又は集団疎開することになった。私たちは、集団疎開で千葉県香取郡神代村(現東昭町)のお寺らで勉強するようになった。
 二十年三月。私は、卒業と女学校の受験を控えて、空襲の一週間ぐらい前に疎開先から本所の実家に戻った。
 三月九日の夜中に出た警戒警報は、十日未明に空襲警報に変わり街中に鳴り響いた。上空を見上げるとB29の編隊が見えた。もう本所の町は、焼夷弾で火の海となっていた。
 私は、母と姉の三人で何も持たずに外に出て、防空頭巾を防火用水で濡らし火の中を逃げまわった。
 「亀沢町の方へ」と誰かの声がしたので、逃げまどう人にもまれながら総武線の鉄橋にたどり着いた。そこから見た光景は、街が火の海となり建物が真っ赤に燃えていた。この光景は、今でも脳裏に焼き付いている。
 私たち母子三人は、奇跡的にもやけど一つしないで助かり、そこで一夜を過ごした。父とは離ればなれになったので、敵機が去った十日の夜明けから父を捜しに行った。やっとあえた時、父は人を助けようとし鉄カブトが顔にあたり大やけどをしていた。
 母が、両国病院に父を連れて行ったが、そこには「やけどをした人たちが大勢いて、医薬品もなく、ほとんどの人が手当もしてもらえない」状態だそうです。
 夜が明けてから私と姉は、焼け野原になったところを通って緑小学校に行ってみた。
 そこには、空襲にあった人たちが集まってきていたが、友達や街の人の多くがやけどをしていて、とても悲惨な状態が目に入ってきた。学校に行くまでの間にも、多くの人たちが亡くなり真っ黒こげになって、道路におかれていた。
 三月十日の空襲では、隣組の人の中には、一家全滅の家。家族が犠牲になった人たちがたくさんいた。また、警察官や消防署員。その他の男の人たちは何かと任務があるため家族と別行動をとらなくてはならず、父の同僚の警察官のなかには、家族が行方不明になったり、亡くなった方が大勢いたと聞かされた。私たち一家は、誰も犠牲になることなく助かったことは本当に奇跡だったと思った。
 やけどを負った父は、治療をするために宇都宮の母の実家に身を寄せることになった。少し遅れて、私と姉も宇都宮に来た。そこで数日間過ごし、父の実家から伯父が迎えにきてくれたので、治療をしていた父と母を残し、一足先に父の実家である宮城(登米郡南方町=現・登米市)に疎開した。」

 

以下墨田区立 すみだ郷土文化資料館にあるB-29の通信装置。とか周辺とか。

通信装置の来歴は教えてもらえなかった。

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 「以下告知より。」

「すみだ郷土文化資料館では、8月15日の終戦の日にあわせ、空襲体験者が自らの体験を通じて戦争の悲惨さや平和の大切さを語る、空襲体験画ギャラリートークを開催します。 空襲体験画ギャラリートーク「空襲体験を話す、書く、描く」 今回の空襲体験画ギャラリートークでは、空襲体験を話すだけでなく、体験記を書いたり、体験画を描いてきた空襲体験者のお二人をお招きし、それぞれの空襲体験や体験を書き/描き残す思いを伺います。 開催日時等 日時 8月10日(土曜日)午後1時から午後3時まで 講演 正木 安喜子 氏 ・ 本橋 桂子 氏 会場 すみだ郷土文化資料館(向島二丁目3番5号)2階展示室 定員 先着40名、事前に電話でお申込みください(電話:03-5619-7034) 費用 入館料(100円)のみ ※中学生以下と身体障害者手帳療育手帳、愛の手帳、精神障害者保健福祉手帳をお持ちの方は無料」