熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

カフェ サロン春 の資料はどこにある

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今日も体調が悪いので、といっても動けるので病院に行き、その後義母のことを知る人と雑談。

晩年になっても義母は自分を妾と見る人がいるのが嫌だと言っていたそうだ。

 

義父が裕福な実家から勘当され解けるまでを支えた十歳上の政恵。

 

銀座のカフェ、サロン春のマネージャー、女給頭だった彼女は大正末期から戦後の23年ぐらいまで熊谷登久平の妻として谷中に住んでいたのだし、岩手県の千厩にいる登久平の弟の息子英三さんを養子に迎える話も進んでいた。正妻と近所も見ているだろうし、記事にも奥様として載っている。

政恵は英三さんが生まれた頃から知っているし、自分が養母となる彼の大学進学時を楽しみにしていたろう。

そこに内縁の夫の登久平が彼女からしたら30以上歳下の女を連れてきた。それが義母の房江なわけで政恵は面白くない。

確認は出来ないが少なくとも房江の二回の流産のうち一回は政恵が関係していたと夫は聞いている。

それを知った登久平は政恵を殴ったそうだが、あまりにも酷いので義母が止めたとか。

 

長男となる久を授かった時にも登久平は政恵に威圧的なことを言ったと義母が語っていたそうだが、今真相は谷中玉林寺の墓の下だ。

 

わかっているのは政恵は久と寿郎を可愛がり、二人は彼女は父方の祖母だと思い込んで育ったことと、政恵が痴呆症になった時には房江が介護をしていたこと、政恵が亡くなると大阪にいた親戚は遺産だけ求めて遺骨は引き取らなかったことだ。

 

私は夫から政恵こと、ちょうちんばあちゃんが久と寿郎名義で70万円の通帳を残していたと聞いて、財源は何だろうと思っていたけど、銀座の花形カフェだったというサロン春のマネージャーで上手く立ち回っていたら金は残るだろう。

昭和41年の70万は大金だ。

中堅サラリーマンの一年分の年収に近い。それを二人分。

考え方によってはインフレで減ったのかもしれないけれど。

http://www2.plala.or.jp/yoshidaya/nikei-shouwashi.htm

【物 価】(昭和41) (私は大学1年生)
封書切手 15円   はがき 7円    国鉄初乗り運賃 20円
パートタイマー 時給 @ 70円 ・  日給 560円
国立大学授業料年額 (文系) ……………… 1万2000円
公営住宅 (2DK)1ヶ月当り賃借料 平均 ……… 7600円

 

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義父が好きだったという谷中の喜久月の甘味。

妻妾一緒に食べたのだろうか。