熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

#熊谷登久平を支えた横江政恵 ヨコエマサエ

義父、熊谷登久平は女好きでありモテたらしい。

カッコイイしね。

だが、大正時代に岩手県の千厩から中央大学に進学したあと、仕送りもらいながら一応勉強はしていたようだけど、大学卒業してるらしいし。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E7%94%BB%E5%AD%A6%E6%A0%A1

大学に通いながら川端画学校にも通い両方卒業して画家になると言い出して豪商であった実家、千厩の日野屋から勘当され、年上の女性に食わせてもらって賞を取り勘当を解かれている。

 

この時代の義父と年上の女性、横江政恵の事を夫婦として上野桜木の浅尾丁策さんが回想記「昭和の若き芸術家たち」に書いてくださっている。

政恵は大阪出身の女性であったが戸籍が無かった。

熊谷家の親戚の記憶では関西訛りがあったそうだ。

義父の親戚が屋敷に下宿をすると、お弁当まで用意していた政恵。

浅尾丁策さんの回想によると、「カフェーサロン春」のマネージャーだったようだ。丁策さんは回想記を日記を元に書いておられる。

回想記の想定読者は画壇と画学生とその界隈だと思われる。

カフェーサロン春は説明文がない事を見ると、ある程度知られた店だったのではないだろうか。

丁策さんは勘当された義父は「俗にいう髪結い屋の亭主」と書いておられる。

 

つまりヒモだ。

 

しかも登久平は売れはじめたら次々と愛人を連れ込み、千厩の町長さんだった熊谷儀一さんが下宿していた時には秋田の女性を家に連れ込み、儀一さんが大学の友人たちと新橋で呑んだ帰りに銀座で別の女性と宜しくやっているところを見られ、高いバーで奢り阿吽の口止めをしている。

 

当時、政恵は妻として家を守っていた。

しかし登久平は、出先の山形で山形新聞の社長のお気に入りだった房江に一目惚れして口説いて東京に連れ帰り、政恵以外の女性を追い出して同居を始めて、私の夫の母である二十以上年下の房江を正妻として戸籍に入れた。

最初はぶつかり合った政恵と房江だが、悪いのは登久平となり、仲良くなり、房江が子を産んだあとはその子らを可愛がり、夫と義兄は政恵を登久平の母親、つまり祖母だと思い込んでいた。

これは以前も書いたけど、政恵が老いた時に介護をしたのは房江で、義父より歳上の政恵が亡くなったあと、遺骨を暫くは房江方の寺に預けた。

義父が亡くなり谷中に墓を求めた際に、房江は熊谷家の墓石に寄り添うような小さな墓石を建てている。

今は政恵と登久平と房江は同じ墓石の下では無いが、寄り添った二つの墓石の下に眠っている。

 

 

 

しかも回想記の中の義父はせこい。そこセコさで丁策さんのコレクションに良いものが入ったので、良いことだと思うことにする。

しかし、「丁策さん」と私の夫、熊谷登久平の次男は親しみを持って呼ぶけど、地方出身の私でさえ先生から名を教わっていた額装の人よ。

日本の画壇の絵の額装をたくさん手がけた人よ。

修復も日本で一番はじめにはじめたぐらいの人よ。

そこの二階で呑んだくれている写真が残ってるのは凄いと思う。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%B0%BE%E4%B8%81%E7%AD%96

 

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