義父、熊谷登久平は忘れられた画家と書いても間違いではないが、毎年何枚かオークションで作品を観ることができる。
五月だったかには富士山の連作が二枚で七千円で落札された。
神保町の古美術店で小さな作品が三万円で売切れてたことを思うと七千円は額縁代以下なので、私は落札したかったが、夫が売主が知り合いだったら嫌だというので我慢した。
その前には習作が出て、その前には東日本大震災被害地の公共施設が持っていたはずの絵が出ていた。大抵五千円以上にはならない。
それより前には我が家では戦中に失われた幻の絵が出ていたり、私としては落札したかった。
そんな忘れられた画家の義父だけど、山形には結構作品がある。
義父は山形新聞の社長の服部敬雄さんと親しかった。
夫の思い出では優しい伯父さんで、義母と義父の縁結びをしたのが服部敬雄さんだ。
彼のコレクションが中心となっているらしい美術館もある。
服部氏は義父の絵を結構買ってくださったそうなので美術館にあるかと問い合わせをしてみた。
そしたらなんと、学芸員さんが熊谷登久平を知っててくださった。
故郷の一関市博物館の職員でさえ知らなかったのに、有難や有難や。
義父が山形である程度活動をしていたこともご存知で、服部さんが購入された絵の殆どが山形新聞社にあることも教えてくださった。
今度調べて連絡を下さるそうだ。
http://www.yamagata-art-museum.or.jp/
http://gakakeikaku.blog71.fc2.com/blog-entry-270.html
我が家に伝わる長谷川利行碑の伝承と異なることが書いてあるサイトを見つけた。
我が家の伝承では熊谷登久平が服部さんに石の提供と、お気持ちをお願いしたことになっている。
あと、熊谷守一先生は元々長谷川利行さんと付き合いがあったので碑文は彼になったと、うちではなっている、
長谷川利行のオマケ的扱いに今はなっている義父は新宿の某画廊時代も一応友人関係だったし。
その時の写真も残っているけど、サイトによってはさっさと喧嘩別れしたように書かれている。
下の写真、それより後のだよ。