自性院が建てた説明文には勝海舟が愛した女の死を知り書いた歌だとある。
夫の父、熊谷登久平が昭和16年に出した書籍の中の随筆では熊谷伊助の碑で、熊谷家が建立したと書いている。
熊谷伊助は東北の岩手県千厩の熊谷家の生まれ。
熊谷家は平家物語の一ノ谷の合戦で笛の名手で平清盛の甥、敦盛の首を泣く泣くかき切った熊谷次郎直実の血を引くと伝わっており、屋号は日野屋。夫の話では伊達藩にも出入りしており、その縁で戦後、熊谷登久平の谷中のアトリエに仙台の伊達家の奥方が訪ねてこられ、資金を融通したことがある。
輿を持ってくると仰られたが、義父は輿は伊達家にあるべきものですからと断り、そのまま融資をして今も我が家に伊達家の焦げ付き証文がある。
うちの壁塗り替えたいけど金がない。でも時効。
その裕福な熊谷家の幕末期の当主の長男が、熊谷伊助。
義父の随筆には、
「喜多流をよく謡ひ、舞ふた喜造に、伊助、伊兵衞の二子があつた。
伊助は江戸に出て、札差より幕府の政商となり、元治、慶應、明治に渡つて、高島嘉右衛門、大倉喜八郎とともに、はたらき横濱開港や海外貿易につくした。わが家にのこる三人のちよん髷姿の寫眞も珍しい。
またフランス政府より黒船を買ひとりペルリと交流した。彼、提督の寫眞も(わが家に)のこつている。
ことに勝海舟を助けて外國との交易に尽くしたので、その文研など少なくない。
伊助毒されて、たほれるや海舟は、その遺骸を抱いて泣きくれしとのことである。いま
よきひとの消えしときかばわれもしも心痛むるひとりなりけり
と嘆きし勝海舟の書き建てし爺の碑が千葉県行徳町自性院境内にある。
その弟伊兵衛は實に私の曾祖父であるが……以下略」
初出不明、昭和十六年七月二十日発行
熊谷登久平畫集 ー絵と文ー
より引用。
著作権保持者、次男熊谷寿郎
熊谷登久平は伊助の弟の曾孫にあたる。
熊谷家の長男として生まれ、後継として育てられたが画家への夢が捨てられず、上京して中央大学に通いつつ小石川にあった川端画学校にて油絵を学んだ。
そして谷中に住まい谷中に骨を埋めた。
夫の記憶では亡くなる前まで千葉県に親戚の墓参りに出かけることがあったそうだが、多分墓参りは夫の記憶違いで伊助を思う勝海舟の歌碑の事であろう。義父の随筆によれば伊助の石碑は熊谷家が建てている。
以下、川端画学校のwiki
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E7%94%BB%E5%AD%A6%E6%A0%A1
川端画学校は昭和20年の空襲で焼失し、廃校となった。
伊助に話を戻します。
以下、横浜市が昭和60年に発行した冊子、6枚目。
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/images/kaikouno-hiroba_21.pdf
この横浜市の記録にも熊谷伊助の石碑の話が出てくる。
(横浜市にも熊谷家の分家があるのね。家系図だと伊助の孫が同じ名だ。
義父は兄弟が多かったからなぁ。夫は親戚を把握しておらず、よって私に至っては全然わかりません。
伊助の生家である千厩の本家は把握しているのかな。今度ご挨拶に伺うので緊張をしています。私は分家の次男の嫁だし、子を生んでないし。)
長谷川利行と義父の熊谷登久平がいる写真。
石碑のに書かれているのは誰か?気になるので昨日碑がある自性院さんに電話で問い合わせた。
墓地の販売サイトでも勝海舟が女性を思った歌と書かれているし、ならば熊谷伊助の碑が他にあるかも知れない。
電話で話してくださったのは女性で、聞くと四十年程前に寺に現住職夫妻は入られたそうだ。
その前に少しの間義兄様がお住職。
その前の記録はなく、過去帳は残っており、「碑に歌われた女性は行徳の旧家田中家の使用人の家のチカさん」だと、訪ねてきた郷土史家の先生が仰られたから、そうなったとのこと。
熊谷伊助の碑のことはご存知なかった。
勝海舟が愛した女性を思った歌説を世に広められた中津攸子女史は市川市在住。
ペンクラブ会員で書籍も多く出しておられる方だ。
http://www.city.ichikawa.lg.jp/library/db/1043.html
東京藝大を卒業されたクリエーターだ。
会津の星亮一先生のような存在でお弟子さんも沢山おられる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E4%BA%AE%E4%B8%80
(星亮一先生は義父熊谷登久平の中学の後輩になります。)
(中津女史、熊谷登久平のことはご存知ないだろうな。)
対して専業主婦の私の話ではお寺さんへの説得力が薄くなる。
一応、市川市にも問い合わせメールをした。
文学ミュージアムにある書籍には熊谷伊助の碑と書いてあるそうだ。
市川市の博物館の学芸員さんも以前の企画展で伊助の碑と書いたとのこと。
でも縦割り行政の悲しさで説明文に関わった部署はどちらとも異なる。
自性院さんにはある程度資料が集まったら私がお伺いをすることになった。
納得できる資料が揃っていたら、地域の代々の有力者でチカの一家が奉公していた家の当主さんが、説明文の書き換えを市の担当部署に掛け合ってくださるとのこと。
私は、資料が揃ったら、できれば中津攸子先生にもお話をお伺いできたらなと思っている。
既に商業出版で勝海舟の石碑は行徳から勝家に奉公した女性の死を悲しむ歌を刻んだものと発表されているし、それが寺の檀家さんやネット上では主流となっている。
それほどの大物作家さんならば、初出資料、一次資料をご存知のはずだ。
私の推測ではチカは伊助の妻だと思うが、勝海舟と三角関係であったのだろうか?
以下ぐだぐだ。
多分義父がたまに行っていた頃のご住職は伊助の碑とご存知だったと思う。
移動はメルセデスベンツで運転手付き、印象には残ってたんじゃないのかな。
義父が「伊助の遺体を勝海舟が抱いて泣いた」と語ったとして、「遺体を勝海舟が抱いて泣いた人の碑」とかに伝言ゲーム化したのかも知れないし、伊助が妻チカに出会った場所が交流があった勝海舟宅だったかも知れない。
チカが勝海舟宅に奉公に出ていたということも中津攸子先生は語られたそうだし。
勝海舟が愛した女を思った歌碑と、ネット上では広がっている。
勝海舟のファンが碑を見に行き寺の説明文を読んだらそう思うだろう。
そして、碑が熊谷伊助のものという証拠はない。
義父は熊谷家が建立したと書き残しているが、「勝海舟がチカを思って建立した」とか「チカの実家が歌を送られて感動して建立した」の方がロマンチックだし、千葉県らしい江戸奉公の悲劇だ。
中津攸子さんの新樹の会
https://genki365.net/gnki02/mypage/mypage_group_info.php?gid=G0000009
伊助が生まれ育った岩手県で講演会も開いておられる。
あっ、岩手大学の古代史の熊谷教授も親戚で伊助の文章を担当外だから読みくだし難いと院生時代に手紙を残している人だ。
「東北には大和を凌ぐほどの豊かな文化があった」
「東北は国のまほろば」についてのインタビュー記事