熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

メモ 近衛と山百合

 

この写真の最前列真ん中が義父の弟さん。
岩手の豪商で東北電灯の重役の息子の次男として生まれて、長男の熊谷登久平が洋画家を目指したために、そのフォローで結構大変だった人。

一年志願兵だった弘前歩兵第31連隊では宮澤清六の同期で豪商の次男同士で亡くなるまで付き合いがあった。

この写真の近衛歩兵第二連隊は 東京都麹町区代官町(現・千代田区北の丸公園2番地)にあり、建物の一部が東京国立近代美術館工芸館として活用されていたので、令和2年の金沢への移転閉館前に慌てて内覧に行った。

この写真が撮影された昭和14年の8月には近衛歩兵第二連隊は富士山麓演習で営庭美化のために山百合を各分隊で採取したその時の記念碑が今も北の丸に残っている。戦記雑誌丸で仕事をしていた頃、その雑談をしたのすら今は昔。

その山百合は夏になると今も咲くそうな。

行こう行こうと思いつつ、夏は暑い。

しかし山百合狩をした部隊の将校の1人が熊谷宏介だったという世の中狭い。

士官であったから、戦後は公職追放の対象であったろうなと思いつつ家業があったので……

少飛の教官時代もあり、教え子の多くが亡くなったことを悔やんでおられたとも。

 

 

 

 

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柬理次良(かんり つぐなが1903-1970)) メモ再び

谷中の染井吉野は満開だ。

 

柬理次良(かんり つぐなが1903-1970))
釧路町(現・釧路市)に生まれ、上京して川端画学校に学び、国画展、日本水彩画会、白日会などで作品を発表。白日会会員。白日会章の八咫烏は柬理次良が清書したもの戦後は日展にも出品した。
また、青空画会(現釧路美術協会)黎明期に東京から賛助出品して協力するなど、最も早い時期から釧路の美術界に貢献した一人である。北海道内所蔵の作は釧路市立美術館に2点、北海道立近代美術館に2点、北海道立釧路芸術館に1点残されているのみであり、知られざる釧路の画家の一人である。
(情報協力:釧路市立美術館)   

   

『四十七回展が来る。四十六回展には吾が敬愛する柬理君が健在であった。それがそつ然として他界された。老少不常と申せ何か手の中の玉が失せた淋しさがある。
柬理君はいつもひっそりとして事務所の片隅に居た。そしてポスターまで作って居た貴重な存在であった。
会の歴史が永ければ長いだけ、喜びも悲しみもある。僕は、心から彼の逝去をとむらいたい。篠原薰』

 

『篠原薫 (しのはら かおる 1888-7-1987)
主に、日展、白日会展で活躍した昭和の実力洋画家である。
1988年(明治21年)香川県生まれ、香川県立工芸学校(香川県立高松工芸高等学校)に学ぶ、昭和8年白日会会員に。のちに白日会委員、日本美術家連盟会員。白日会展で白日賞、中沢賞受賞、日展入選。
戦前戦後東京都台東区谷中三崎町57(谷中小学校の坂上)で暮らし、近隣画家たちと交流した。
『団子坂風景』は谷中小学校の屋上から団子坂方面を描いたと推測できる。昭和30年代半ばに葛飾区青戸へ転居。晩年は千葉県流山市江戸川台へ。
昭和62年流山市で逝去、享年99歳。

生涯現役画家であった。

「私のカツギ屋画商時代に横浜で知りあいになった篠原薫という男が、ひょっこり店にたずねてきた。「いっしょに商売をさせてくれ」というのである。
彼は船員あがりで、小さな喫茶店を横浜でやっていたのだが、絵が好きで当時、白日会に出品しており、その旗頭の富田温一郎さんをたいへん尊敬していた。『洋画商 長谷川仁(日動画廊創業者)著 日動画廊, 1964』」

 

↓柬理次良

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↓篠原薫


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眩暈の薬

昔、近所に『寛永寺坂美術研究所』という画塾があったと聞くも資料がなく。

出身の画家はいるが、詳しい記述のものを見つけられない。なお、義父は谷中初音町で画塾をやっていた。

 

眩暈の薬を処方してもらうために足立区竹ノ塚へ。

谷中霊園の桜、主に染井吉野は見頃で天王寺さんの枝垂れ桜も咲いていた。

私が学生時代に新聞配達をしていた竹ノ塚第三団地の桜も満開だ。

 

2月半ばから3月半ばまでほぼ寝たきりだった間に、雪が積もり、梅が咲き、雪が降り、桜が咲いた。

 

 

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白日会とか

 

午後、戦前義父が会員としてお世話になった白日会展へ。我が家からは最寄駅の千代田線根津駅から展示会場となっている国立新美術館直結の乃木坂駅まで乗り換えなしなので助かる。

義父の作品や資料を搬入する時はタクシーだったが発送代ほどでつける距離なのも嬉しかった。

 

開戦前に日本美術界隈は揺れ、そのとき白日会も揺れ義父を含めた白日会の青年将校と呼ばれたグループが離脱した。

そして義父は戦争画を描かない仲間がいる独立美術の会員となった。里見勝蔵画伯から独立のフォーヴを守れと言われていたからだとも聞いているが、どうなんだろう。

戦時中も熊谷登久平宅では里見勝蔵の座談会的なものも開催されていて白日会独立会の若手が集っていたそうだが、当時を知る人はもういない。

戦前からテーマに沿った作品で競うのは白日会でも楽しんでいたのに、時代の流れにちょっと反抗的な部分があったと思われる独立が熊谷登久平にはよりやすかったのかも知れない。

 

それでも戦時中、白日会関係者の展示会に作品を出していたので無縁ではなく、戦後、白日会会長中澤弘光画伯からの手紙も残っている。

とはいえ、世話になり良い立場を得られていたのに出た熊谷登久平を今も関係者としてくださっている白日会に次男である夫は感謝している。

 

 

 

残念ながら眩暈が安定しておらず念のため杖を持っていく。が、行きの千代田線でふらつき、優先席に座っていた白人の人にぶつかるがワザとと取られたようで睨まれて怖かった。

日本人の人が席を譲ってくださった。3人席の真ん中で両隣が外国人だった。

 

 

白日展会場受付に去年色々調べた坪内正画伯のお弟子さんがいて池之端画廊で私個人蔵の作品を展示したことをとても感謝された。

また遺作集が広島の県立美術館に納められるきっかけを作ったことも感謝された。

あれからあちこちの美術の学芸員さんに画集を求められて差し上げるようになっていることなど雑談。私は坪内画伯の作品も好きだ。

なお、私が死ぬ前に某美術館に関係資料も含めて寄贈する口約束にはなっている。

 

お会いした坪内正画伯のお弟子さんはお二人、聞くと義父の戦前の画仲間だった伊藤清永画伯が坪内正画伯と戦前から親しくて、その縁で白日会と坪内画伯の繋がりがあったそうな。

 

事務局長の寺久保さんに会場を案内頂き、夕方志村けんが気に入っていたという乃木坂の母体が魚屋さんだという居酒屋で飲んだ。ほぼ奢り。🙇‍♀️

刺身の熟成具合が好みで体調が良ければもっと食べていたと思う。お通しがないのも良く幸せ。

寺久保さんは勝海舟の直系の方の親友でもあり、勝海舟の日記に登場する熊谷伊助の血縁の熊谷登久平とのこととか縁の不思議を感じている。

白日会百周史に協力できたのもあの世の縁の繋がりだったし、私が入れ込んでる画家の1人坪内正画伯が伊藤清永画伯の学生時代からの友人だったのもそう。

義父の画仲間の村上鉄太郎画伯の遺族宅で伊藤清永画伯と中澤弘光画伯の野外スケッチの写真を色校当日に再発掘し百年史に掲載できたことなどを中山忠彦会長から「ありがとう」と言っていただけたこと嬉しかった。あの写真は本当に喜んでいただけた。

 

縁は面白いし、ありがたい。

 

 

 

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↑亀山裕昭画伯の『 Mellow & Yellow 』 
ボートが見える駐車場と黄色い素敵な家とソーラパネルに青い空で、水たまりに映る家。
その家はお金をかけて建てたのだろうなと思える作りで、でも今は手入れされてない感じで。

すんげー心惹かれた。


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以下愚痴。

 

朝、眩暈で病院に行くかで夫と揉めた。

眩暈とか何もかも対処療法なので嫌気が溜まっている。

 

対処療法に毎月2万円ほど使って、大学病院で定期検査もある。

おかげさまで随分と数値が良くなり肥大していた心臓も1センチ縮んだが、年間何十万かけて1センチ。という気持ちもある。

弁膜症もあり汚い血が巡るのでひたすら疲れやすく、だるい時はユンケルなどで補完しながらやっている。

加齢もあるとわかっているが、医療費が嵩んでいて、肥大も不整脈もほっといてバタと死ぬのが経済的ではないかと。

で、台東区の火葬代が4月から9万円に値上がり、直葬でも棺桶やらなんやらで結構かかる。

とか吐くほどの眩暈の発作をトラベルミンで抑えつつ情けないと悔しくて。

 

育児時代、介護時代、再婚前のスープの冷めない距離にママ友たちがいて、それまでの蓄積で原稿がある程度書けていた時代をふと懐かしむ。

ママ友たちも親の介護で実家に帰り二重生活となり身体を壊したり、やはり離婚になったり。

 

母子家庭で良かったのは医療費の補助が出たことかな。あの頃は公立高校の無償化はまだなく、アルバムや修学旅行の積立が辛かったが医療費補助は大きかった。

とか、先日の医療費の領収書を見て気分が良くない。

 

 

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