熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

昔、足立区民の江戸一は五反野にあった。

40年ほど昔、東武伊勢崎線五反野に江戸一という居酒屋があり安く、広い場所もあり、若者たちに人気だった。
今は「すたみな太郎」などのチェーン店を経営している。
某日、元足立区民2人で御徒町駅前の江戸一で食す。
バイトの女性1人回しだったので大変そうだった。
昔の江戸一は安くて美味しかったと半世紀生きた女2人で烏龍茶を飲んだ。
昼間なのにお通し代を取られたんだけど、マヨネーズで味付けしたのびたマカロニ。






美は脊椎にあり―画家・白石隆一の生涯 小池平和 本の森社

著者、小池 平和
美は脊椎にあり―画家・白石隆一の生涯

「生命にひそむ美とは?「日本一の魚の画家」といわれた岩手出身の洋画家・白石隆一の美への執念とその生涯を描く。
内容(「MARC」データベースより)
「日本一の魚の画家」といわれた岩手県出身の洋画家・白石隆一。高村光太郎との出会い、関東大震災直後、命を落としかけた話や戦争画を描いた頃の不安な日々。隆一の美への執念とその生涯を描く。 」

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義父と同郷で同じ小学校と旧制中学で学び、同じく美術部に属して、学友宅の書庫にある世界の画集を共に楽しんだ白石隆一画伯の伝記。
ほぼ同時期に上京し共に画家を目指すが、白石家は画家になることへの理解があり、親に内緒で中央大学に通いながら川端画学校にも通った義父の熊谷登久平とは上京後の生活は同じ川端画学校に学んだとはいえかなり違う。
また大正期の画学生の生活も読めるが、関東大震災の時に東北弁が出た為に殺されそうになった話にはゾッとする。
運良く家族が間に合い白石隆一氏の命は助かったが。
画家として順調に実績を重ね、従軍画家としても成功した画伯だが、空襲で東京の家とそれまでの主な作品を焼失してしまう。

その後岩手県に戻るがかなりの苦労もされ、東京に戻ることを許されず岩手県一関市で若手育成に力を入れて画家として大成していく。
読みでがあった。

残念なのが、本書の中での義父熊谷登久平は画家を目指したが挫折し銀行に勤めて絵は趣味で終わったように書かれている。

我が家では義父は画家と伝わっており、独立美術協会の審査員も務めたという資料もあるが、著者は画家として認識しておらず、経済人と書いている。
この記述の資料を私は探しているが、見つからず困惑している。、

長谷川利行の絵: 芸術家と時代

編集として作家として大ベテランの大塚信一氏による長谷川利行評伝。
夏目漱石の小説、三四郎長谷川利行の人生を重ねる新しい切り口。
今入手できる長谷川利行の本では一番交流関係が書かれているし纏まっている。

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編集として作家として大ベテランの大塚信一氏による利行伝。
私の知らない資料が使われていないかという失礼な読み方をした。
長谷川利行伝としては目新しい情報はなく、よく纏まっている。
だがあちこちで引用され続けた文章のつなぎに、できれば書き手の背景が欲しかったし、戦前の美術史を知っている読者層を前提とするのではなく、庶民にも人気があった利行に合わせ、当時の画壇の時代背景ももう少し詳しく読みたかった。

私ごとで申し訳ないが、義父の熊谷登久平の情報は死後矢野文夫が書いたのを採用しているので事実とは異なる描写もある。

三四郎が歩いた愛染川のある場所、そのあたりで矢野文夫や熊谷登久平と人生の交差があったが、矢野文夫と熊谷の随筆では時代がズレる。

長谷川利行と熊谷登久平が出会ったのは学生時代ではない。
熊谷の中央大学と川端画学校卒業後、画家になりたいと言い父親に勘当されて慣れない労働をし結核で熱海の診療所で静養して東京市に帰ってきてからのことだ。
熊谷に寄り添っていた女性はその間献身的に寄り添い、結核の間も支えた女性であり、妻として熊谷家にも認められていた。
生活費は豪商の実父からの送金が途絶えただけで、慣れない労働をした為に身体を壊し、慌てた母親の裕福な実家や一族からの仕送りがあった時期である。

長谷川利行が女を抱いたか抱かないかについても矢野氏の曖昧なものを採用しているが、矢野版でも抱いた話がある場合もある。

長谷川利行の死後、天城氏が遺骨を祀り、まるで神格化するような動きもあったが本作にも利行を求道者のように書いているように取れる部分もあり違和感を覚えた。



 

チビのいない日々

ペットロスが酷いというか、先週のアッシュも辛かったけど、ハチワレのお喋りで愛情表現半端なかったチビのロスが今も辛く。
この家に嫁いで一番お喋りをしたのがチビで、人間の家族は日本語なので気持ちを通じ合うのは難しいけど、チビは常に沢山話してくれたし擦り寄ってくれ私の存在意義だった。
お喋りの猫には三毛猫のチャミもいて、彼女は嫉妬深く私の膝を常に独占していて他の猫には許さなかった。でもある日突然死んでしまった。
老猫ではあった。


お喋り猫には他家から預かる猫を面倒見てくれるフーちゃんもいた。
通院を続けたけど死んでしまった。
息子の猫や新入りのノルルはフーちゃんがトイレや寄り添いをして心を開いてくれていた。
フーちゃんは見た目は怖いけど優しい猫で、黒猫のミーくんが癌になった時にも寄り添ってくれた。
フーちゃんはへその緒がついた状態でチャミと一緒に我が家の前に置かれた段ボールに入っていた。
お腹がすくと私でフミフミをした。


フーちゃんが死んで、お喋り猫は全身を使って私に愛情表現をしてくれる毛繕いもしてくれるチビちゃんだけになった、もともと鼻炎があり多分それが原因で捨てられた猫だけど、やはり面倒見が良く子猫の世話が上手で我が家にはチビに育てられた猫が多くいたそうだ。
私もチビに育てられていたのかもしれない。
落ち込むと良く毛繕いをしてくれた。

沢山の猫と死に別れたけど、チビちゃんの大好き大好きがあったから耐えられたのかもしれない。
先日のアッシュは苦しまず、老衰的に死んでいったけど辛く、気が紛れず。
猫たちが今の夫との縁結びをしてくれたし、猫たちに大好きと表現されていたのは嬉しかった。餌当番であろうとも可愛いし愛しい。

チビがいないと寂しいし、私がここにいても良いと、実感させてくれる存在がいなくなった。

私が連れてきたにゃあちゃんがいるけれど、にゃあちゃんは足立区舎人の猫で台東区谷中の猫ではない。

夫が愛車を手放したことに嘆く時の心苦しさや、具合が悪い時の心苦しさを、経済的な悩みとか受け入れてくれる存在がチビちゃんだった。

猫たちは可愛いし、難しい日本語を話さないので二心はないと信じられる。

図書館や資料室が開いてない閉塞感に潰されそうな今は本当にチビちゃんがいて欲しい。
寂しい。、

もう、良いのではないかと思い始めてる。

夫は具合が悪い。
かなり不安になる。
夫のためにも早く成果を出したいが実力がない。


先日ネットで図書館が開いてなければ論文が書けないのは無能的な発言があったが、400枚程度の纏めも出来ない私はなんなんだろうかと煮えている。

素地の違いというものは努力で埋められない。
40年努力した結果が、自分の難病もどき発病と母の認知症に子らの思春期と受験にも金銭的にも精神的にも対応できない中途半端な私で、離婚を招き子どもたちを貧困状態にした。

実家が太い人は親が認知症になっても有料施設に入れられるし、子の受験には我が家の年収より多い金を投入できる。

てか、年表ができないと愚痴った時に(1901年から1968年までの年表が頭に入ってなってバカねってことを言われた時は)恥ずかしかったし、嫌だった。

何故、義父の年表が難しいか伝えようとしたが、彼女は理解してくれなかった。
義父の年表は確かに専門職が作成したものがある。
が、私からみたら合わない。我が家に残っている資料と比べても空欄も多い。
この私から見たら合わないが生意気なわけで、美学を学んでない私が意見するのはおかしいというのが普通の感覚らしく、一昨年からとても疲れた。


長谷川利行のスケッチブックも私が本物だと言っても画廊以外は信じてくれなかった。
写メをつけてメールを送っても、登記簿と戸籍を添付して熊谷登久平の遺族だと証明しても受付で相手にしてくれず、あれもかなり惨めだった。
熊谷登久平を知らない人の方が多いので、この家にある多くの私から見たら美術史の一項目が朽ちてしまう。
最後は昔の職場の上司である近現代の学芸員に泣きついた。

モブ人生は本当に何十年努力してもモブだ。

絵は絵の背景も調べた方が面白いという私の考え方は古いらしく、それも指摘されると凹む。

熊谷登久平の絵が好きだから、ゴミにしたくなくてジタバタしていると金に卑しく取られる。
商業画家の作品が打ち捨てられるのって悲しくないかい。
公共施設に展示されていた絵の多くが行方不明になっていることが悲しいのは変だろうか。

20年前にはそこにあった絵が行方不明なのを沢山知り、結構追うのに疲れた。

うちにあった新聞のスクラップも義父の交友関係がある程度わかる葬式の時の芳名帳も、美学を学んだ学芸員に渡したからもういいのかなと思う。

可愛らしい猫たちの墓で眠りたいと願うですよ。
熊谷家の墓には申し訳なくて入りたくないです。
つか猫たちが毎年複数虹の橋を渡って行くので、もう辛くて。
辛いのは私だけじゃないと言われも慣れない。

図書館が開いてないから調べるのがマジ手探り過ぎて、心が色々とエラーになる

私は教養がないので、図書館と神保町の古書街を頼らないと何もできない。
エクセルがあれば、完璧な年表を生み出せるという優秀な脳内記録は持ってない。

去年、年表で悩んでいた時に兵庫県の女子が通う高校ではトップクラス、そこから首都圏の国立大に受かり卒業し研究所に勤務した人から脳内の記録では義父の年表ができないことを理解してもらえないことに結構絶望したけど、頭の良い人は壁を経験したことがないからコツコツが理解できないんだろうなとは思った。彼女は理系だし。

で、去年は熊谷登久平の年表をつくるにもズレと空白が生じることを悩んでいたが、今は図書館が想像より長く閉ざされていてアレもこれも証明できないことだらけな事に煮え詰まっている。

うちにある朝日新聞社の紙資料だと義父が偽物と言われた作品を本物だと正しく鑑定したことになっているし、義父自身が商業誌に残した随筆でも贋作騒動の時にランカイヤと揉めたことを書いてある。
この時、偽物と言われた作品は今も長谷川利行の代表作となっている。

だが、森まゆみ氏の記事だと義父が彩美堂が贋作制作に関わったこと書き残しているとなっている。
我が家にある記録では彩美堂の汚名を晴らしたことになっている。
この真逆。

長谷川利行が彩美堂に残されていた若手たちの絵を直してサインを入れたと義父が書いているが、それになるのだろうか。
利行風の絵を描いた若者が沢山いて、彼らは落選し、額縁を借りた彩美堂に作品を置き去りにした。
それを彩美堂が利行に手直しを頼みサインも書かせた所だろうか?






長谷川利行の記録を読んでいくと、新しくなればなるほど、熊谷登久平は関係者から消えていく、2年前の雑誌の長谷川利行をめぐる人たちから義父は消えて、義父がいた場所には矢野文夫氏単体、もしくは義父より10歳下のグループが入っている。

たくさん絵を描いて中堅と言われていても死後名が残るのは僅かだなと調べれば調べるほどものの哀れを感じる。
同級生だった矢野文夫の下級生にされたのも哀れだ。
もう誰も訂正を入れなくなるほど忘れられて贋作推奨をやったようにも書かれて、私なら耐え難い。
長谷川利行の贋作を制作した人は確かにいるが、熊谷登久平ではない。義父は贋作をつくるほど金に困ってないし。





年表で訂正したいものは沢山ある。

なぜか、熊谷登久平は疎開が縁で山形県によく行くようになったと岩手県の一関市の図録に書かれており、その他もそうなっているので、なぜそうなったのかを探している。
戦前の、それこそ皇紀2600年前から山形県に通っていたと我が家の資料だとなるけど、なんか何やっても無駄な気もしてきてはいる。
それの大元になったのは多分山形美術館の初代館長の資料な感じで、ご存命なので御著作片手に問い合わせたが体調が悪そうだった。
間に合わなかった。


一関市の作家が書いた熊谷登久平は銀行員の趣味で絵を描いているって感じの元ネタも一関市の義父を知る史家に問い合わせたがわからない。
義父は戦前に一関市と盛岡市でも個展を開催しているし、戦後も個展を開いているが、忘れられいる。










アベノマスクが届いた。

どうしたら良いのかなと夫とアベノマスクを見ながら悩んでいる。
我が家は3人家族であるが、最近娘がマスクを作ってくれるのでなんとかなっている。

突然寒くなったり暑くなったり寒くなったりで、綺麗な花で楽しませてくれていたオオデマリの木が枯れた。ミニ薔薇も枯れた。
花が咲いていたジャスミンも弱ってて、みかんの花も元気がない。
アブラムシを食べていてくれたテントウムシの幼虫たちは蛹になったけどこの気温で大丈夫だろうか。
ニオイマツリの花も寒そうだ。
去年夏に異常に暑い日があり可愛がっていたニオイマツリとラベンダーが枯れた。
このニオイマツリは世話になっている花屋さんに頂いたものだが、大丈夫だろうか。
中庭に直植えした方が良いだろうか。
一昨年の暑い夏にはローブマリーがダメになった。
花が咲くと表に出すようにしていたのが悪かった。照り返しでやられたのだろうか。
今年、二種類のローズマリーの苗を購入して中庭に直植えにした。

惜しいのは大雪で折れてしまった黒い花が咲くセージだ。
そのセージは川口市の安行の道の駅で買った。
何故か格安で、育ったら黒い花が咲くようになった。
谷中に嫁いでからは花が咲くと観光客の方が珍しいと写真を撮っていた。
セージとだけ書いてあった苗だったし黒い花のセージは見かけない。
蜜も美味しかったので、また縁があったら欲しいと思っている。


用があって上野に行った。
相変わらずすいている。