熊谷登久平アトリエ跡に住む専業主婦は大家の嫁で元戦記ライター

台東区谷中の洋画家熊谷登久平のアトリエ跡に住む次男に嫁いだ主婦の雑談

自転車保険

4月から自転車保険が義務になるが、我が家の自転車は既に保険に入っている。
昨日夫とぶつかる寸前だった女性の自転車も保険に加入しておられたので、かなりホッとした。
相手さんは還暦の夫より歳上の女性なので、夫が咄嗟にバイクを倒し当たらないようにして良かったと思う。
女性の骨は歳を重ねると脆くなりやすく、義母も転んで骨折をしてから身体を壊していったそうだ。
なので夫も相手が怪我をしなかったことを喜んでいるが、ヒビが入った肋骨二本はとても痛いらしく、昨夜は寝る時に私が補助をした。

女性の為に咄嗟にバイクを倒したのは偉いと思いますが長生きしてください。


うちは江戸時代は瑞輪寺の敷地で、上野戦争の時に彰義隊が籠り匿い焼かれた場所らしい。
家の前で何人かの遺体があったとも伝わっている。
瑞輪寺は葵の御紋の使用を有された寺で、日蓮宗だ。

瑞輪寺では毎年2月19日に100日の荒行を成したお坊さんたちが水行をする。
99日修行をしてきたお坊さんたち、髭が濃い人はぼうぼうで、頭が爽やかな人は案外少なく髪もフサフサ。
と、頭が爽やかな夫に言ったら「若手がやるから」とのたまう。
夫の幼馴染のお坊さんも若い頃何回か参加していて、面会が許される30日目に夫たちは訪ねて行ったそうだがヘロヘロだったとか。

旧海軍の教育機関江田島名物の台風のようなものが荒行でもあるとか。
何かミスがあれば先輩たちに色々されてしまうやつですね。

瑞輪寺さんから今年も京都の和菓子を頂いた。
御馳走さまです。






夫事故って救急搬送される。義父の作品の多くは行方不明だったり倉庫だったり

相変わらず、義父の熊谷登久平の作品の場所や何処に居たかなどを調べているが良く心折れそうになる。

新宿厚生年金会館に常設展示をされていた、義父の #熊谷登久平 の作品 #眩暈 は厚生年金会館が解体された時に一緒に処分された可能性があり、厚生労働省にどこかに譲ってないかと問い合わせをしたら管轄ではないと言われて愕然とした。

遺族の手元に残るは、新聞記事の切り抜きと絵葉書だけだ。

厚生省関連の施設にはバリベア会の関係もあり絵をかなり寄贈している。
それが厚生労働省となった段階で散ったようだ。
義父が指導していたバリベア会は元々霞ヶ関の絵画の会で、連絡先も厚生省にあったのだが、もう知る人もいない。

悲しかったのは下谷警察署受付の前に飾られていたスフィンクスは建て替えたらまた展示と説明を受けていたのに、新しい下谷警察には展示されていない。倉庫にあるそうだ。
郵政省の美術館にあった絵も今は展示されず市川市にある倉庫だ。
今常設展示をされている美術館は義父が可愛がっていた甥の英三さんが作ってくれた岩手県千厩の熊谷美術館だけになる。

千厩町にもあちこちで展示されていたが、一関市と合併したことで小学校中学校は問い合わせてもわからず、出張所になったかつての町役場も私が去年行くまでは収蔵していることすら知られてなかった。
千厩町が独立した行政だった頃は熊谷本家出身の熊谷登久平と伊助の項目が町のサイトにあったが、今の一関市にはない。




今のところ私への救いは義父が尊敬していた血縁者の熊谷伊助の石碑、勝海舟が伊助が(毒殺と言われている)死んだ時に悲しんで読んだ歌の碑がいつの間にか愛した女への歌碑になっていたのを訂正出来たこと。
証拠をいっぱい集めて、伊助の生家と直系の意思もまとめての交渉だったので結構大変だった。

とか書いていたら近所の奥様が駆け込んでいらして、夫が言問通りの交差点で事故ったと。
夫はバイクで青信号で発進した所に信号無視をした自転車が突っ込んできたので咄嗟に避けて壁にぶつかり、バイクの下敷きになったらしい。
慌てて交差点に行き、着いていた根津の救急車に同乗して日医大に運ばれて、夫は今精密検査中。

無事なら良いです。



https://twitter.com/yanakakumagai/status/1229609967981752320?s=21

ガンダムラリーを適度に

互いの第一子が腹にいる時からのオタク仲間でありママ友と朝、日暮里駅で待ち合わせをして西日暮里駅中の蕎麦屋シャア専用ソバを食す。
生姜の赤を活かしたかき揚げソバ。
山手線を池袋に向かって移動して巣鴨
巣鴨駅、マ・クベ愛が凄い。
私も好きです、声が塩沢兼人さんだし好き。
今回の巣鴨駅の展示結構騒いでしまいました。
私たち孫もいますがガンダム1st世代。
思春期夢中になってガンダムを観たし、塩がないと騒ぐ調理のおじさんとか懐かしがりながらキャッキャしました。
池袋から私たちの世代にとっては赤羽線に乗り換え、十条駅ハマーン様可哀想だよねと毎度だけど盛り上がる。
シャアに関わった女は幸せになれない。

十条駅で少し歩いて昔からある喫茶店に行ったら、今月で閉店とのこと。
美味しいのに何故と。
軽く食事をして内装を惜しむ。

その後、商店街を抜けて赤羽まで歩いた。
途中にある高低差を活かした公園は国鉄の宿舎跡地で、プールまであった。
東洋のマタハリが一時期住んだ川島邸跡地はもう分割され過ぎていてわからなくなっていた。
赤羽には陸軍関係者の屋敷が結構あったはず。
ボーリング場があった所はスーパーになっていた。

私たちが育児をしていた頃とは本当に変わった。




























































近所の梅の花が可愛い。

リハビリの帰りに近所の梅の木を巡った。
一軒梅を切っている最中だった。

三浦坂を降りて切手通りを右に曲がって少し行ったところにある「ひるねこBOOK's」さんにて牛島秀彦さんの本を見つけた。

「もう一つの昭和史 4 浅草の灯エノケン 毎日新聞社 1979」

私にとっての牛島さんは同じ担当さんの作家であり翻訳者で、ジョン・トーランドの名著「戦いの神々」「占領」を翻訳された方である。
戦前のプロ野球選手であり日大の学生でもあった投手の石丸進一という航空特攻死者の従兄ということや戦争ものの印象が強かったので、エノケンの本も出していたことに驚きもあった。

150円で購入したが良いのだろうか先輩になるのにと少し葛藤。

石丸進一氏は1944年に学徒出陣で海軍飛行科に配属され翌年特攻に志願し作戦前に里帰りをして子どもだった牛島氏にも会い一発殴っている。
そして特攻に旅立つ前に戦友とキャッチボールを「これで思い残すことはない。報道班員、さようなら!!」と言ったそうだ。
これは鹿屋の報道班員だった作家の山岡荘八が書き残している。
同じく鹿屋の報道班員だった川端康成はとか当時を知る人たちから色々聞けたの良い経験だったのかな私は。

牛島氏はジョン・トーランドご夫妻と家族で交流もされていて、それは羨ましくもあったが、積極的に働いておられたためか64歳で倒れて亡くなられた。
氏が訳すはずだったトーランドの朝鮮戦争の本はどうなったのかなと思っていたり。



https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%B8%B8%E9%80%B2%E4%B8%80






















千葉県っ

船橋市に婿養子に行った息子、先日家族で茨城県の聖地の大洗へ。
楽しかったそうだ。


夫希望の藁納豆と私希望の生明太子を買ってきてくれたので船橋まで受け取りに行く。

で、船橋バーミヤン でランチ。
我が家の近所にはバーミヤン がない。ので息子夫婦曰く船橋にも美味しい店があるのにと苦笑しながら連れて行ってくれた。

孫、フライドポテトを食す。
喜んで食す。

息子もフライドポテトが好きで山のように揚げた話しなどをしながら見る。
子ども二人が育ち盛りの頃は本当に山を二つぐらいポテトと唐揚げを作った。
息子が私が使っていた日清製粉からあげ粉を使ったら同じ味だったという。

など、色々雑談。

船橋自衛隊空挺団の本拠地。
奥さんに普段の訓練はどないですかと聞いたら、「空からぽろぽろ落ちてますよ」と言われてツボにハマる。

あと、コメダ珈琲ってあるかと聞いたら習志野にあるからと連れて行ってくれる事に。

コメダ珈琲GODIVAとのなんちゃらは、もうなかった。
品切れだとのこと。
コメダ珈琲、美味しかった。

そして小僧寿しで夫の好物のバッテラを購入して帰宅。